生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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サバ読む年頃-25年目のキス-

a0032317_2545475.jpgどこのどんな街に行っても、必ず出くわすのが校外学習中の子どもたちだ。
数えると16カ国になったが、過去に行ったあらゆる国のあらゆる街で、この類の一行に出くわした。
今回もご多分に漏れず、である。



パレルモの旧市街に雄然と構えるカテドラルで、私は、この建築物にまつわる「歴史的説明」をガイドブックの記述に求めようとしていた。
音のよく響く、遥か高い天井の下で、さきほどから金切り声さえ混じった賑やかさを示すのは、やんちゃざかりの小学生たちである。
3、4年生くらいだろうか。
どうと気に留めるでなく過ごしていたものの、背後から少年の呼びかける声がする。

振り返ると数人の男の子たちが、ニヤニヤしながらなにやら話しかけてくる。
もちろんイタリア語だけれど、おおよそ察しはつく。

「日本人?」
まあ、大体そういうことを訊くんだ。この輩は。
「そうよ」と答えると、ニヤニヤしながらイタリア語で何か言う。
「だめだめ。英語しかわかんないよ」
すると、グループの中で頭の良さそうな男の子が代表するように二言三言英語をしゃべったかと思うと、照れたように群衆の中に走り去っていく。

こういうのって、どこの国の子も同じなんだよね。
再び、私はガイドブックをめくる。

すると今度は女の子たちがやってくる。さっきの男の子たちを後ろに従えて。
女の子たちは、少し大人びている。これもどこの国でも同じ。
そして堂々たる様子で英語をつかい、「どこから来たの?」と訊く。

だから、日本だってば。
「あなたは?」と訊き返すと、「イタリアーノ」と答える。
そりゃそうだろう。
「イアリアのどこ?」と訊くと、「パレルモ、イタリアーノ」。
なんだ、ほんとにすぐ地元の子どもか。

そして私に名前を訊く。そんなの訊いてどうするんだろう?
それに答えると、これまたお決まりなのだけれど、自己紹介大会が始まる。
次から次へとそこにいる子どもが、自分の名前を発表していく。
「マイネームイズジェシカ」
「マイネームイズマリア」・・・

そんなの憶えられるはずもないけど、とりあえず「ジェシカ」と言えば「はいはい、ジェシカね」と相づちを打ってやる。
そうして、子どもというのは、もう自分が異邦人と友達になったとばかりに得意げに隣の子と顔を見合わせるのだ。

この儀式は、あらゆる国のあらゆる街で繰り広げられる。
一人で旅していると、こういうふうに無邪気な現地の子どもなり年寄りなりに声をかけられることが多いのだ。

一人のパレルモっ子が言った。
「ハウオールドアーユー?」

そこで、私、はたと止まった。
年齢を訊かれて、はたと止まった。

隠すようなことでもないと思うけれど、正直に答えたときの反応が手に取るように分かるのだ。
この無邪気な子どもたちは、「えー、うそだー」という感想を口々にするに違いない。
そして私は苦笑いをしながら、「ほんとだってば」と答えることになるだろう。

誰しも経験があるだろうが、欧米人に比べてアジア人というのは幼く見えることが多く、実際、ずいぶん若く見られてしまうことが多い。
その上、私は日本人にしたって童顔なので、国内にいてさえ実際より若く見られてしまう。(ただし口さえ開かなければ)
かつてニュージーランドでホームステイをしたとき、当時私はハタチだったが、ホストマザーの孫でドイツ人とマオリのハーフという10才にしては信じられないほど発育のいい女の子に年齢を訊かれ、正直に答えたところ、「絶対嘘だ。あんたは15だ」と断定されたことがある。
そういうときの気恥ずかしさというのは、なんとも言えないものがある。
若く見られて嬉しいなんていうのは一かけらもなく、なんというか、ン十年も生きてるくせにこんな見てくれでスミマセン、というような、理不尽な肩身の狭さを感じてしまうのだ。

今はハタチのときとくらべ、またもっと年をとっている。
けれど、私の見てくれといったら、とった年と同じ分だけ大人になったとはどうも言えそうにない。
それは十分自覚するところ。

実際、こうやって子どもが無邪気に声をかけてくるということ自体が、幼く見えている証拠なのだ。
大体、子どもというのは、立派な大人に声をかけるとなるとたいてい遠慮があるものだ。
それがこの馴れ馴れしさと言ったら、まず間違いなく、「自分たちと同じ範疇の人間」と認識しているに違いない。

ここで私が、本当の年齢を言ったら、それが彼らの母親の年齢とそう大差ないことに驚くだろう。
自分の経験からしても、子どもにとって母親の年齢というものの基準は非常に大きい。
だから私は、年齢への問いに答えるのを躊躇した。

「え?」と分からないふりをすると、「ハウオールドアーユー?」とご丁寧にリピートしてくれる。
あー、25とか答えようかなあ?それも中途半端かなあ?
と、今まで一度たりとも読んだことのないサバについて思いを巡らす。

そのとき向こうから、彼らの先生らしき女性が「ほらもう行くわよ!」といった感じで呼んだ。
そうして子どもたちは、ニヤニヤと何度もこちらを振り返りながら、列の中に戻っていった。

サバ、読まずにすんだな・・・。

それにしても、少々ショックだった。
こんなことに動きがとまってしまうような年になった自分にショックだった。
というより、大学生のときならいざ知らず、こんな年で一人で旅行していることが、なんだかちょっと恥ずかしい気がしてきた。
子どもが親しみを感じるくらいの見てくれで辛うじて許されているものの、本来なら、誰かと二人連れとか、あるいは子連れとかでも決して不自然でない年齢である。
少なくともあと5年したら、間違いなくそういう境地に突入してしまう。

大体、40歳や50歳の女一人旅なんて、見たことあるか?
ない。ないぞ、私は。

30歳の女一人旅も、なかなかな大したものだ。
CREAとかFRAUの別冊に載っている様な、豪華絢爛贅沢三昧の旅をするなら話は別だが、私はと言えばあいかわらずの質素な旅行。
辛うじてバックパックとユースホステルは卒業したものの、旅に出れば普段はつけないお小遣い帳をつけるのがなんとなく楽しかったりする異国の旅路。
そういう旅行が好きなのだから、またしようがないのだけれど。

こういうのを、「年甲斐もなく」と言うのだろうか。

ふたり旅にはふたり旅なりの、家族旅行には家族旅行なりの、楽しみ方があると思う。
だから何も、これから一生一人旅だけを続けたいなんて、言うつもりはない。
ただ、たまたま一人だから、一人なりの楽しみ方をしているだけ。これ、ほんとよ。ほんと。


何気に同い年であるドリュー・バリモアが、年甲斐もなく高校生の役に扮した「25年目のキス」。
25歳までキス一つ知らないカタブツの新聞記者の女性が、いまどきの高校生をルポすべく、ハイスクールガールになりすます。
高校生としてなじんでしまえるドリュー・バリモア。
クラスメイトも大して彼女を疑わない。

ただ、観ている方には若干無理があるように映るけど、それでも年齢なんて、気の持ち様なんだから、と自分を励ましてみる。
年甲斐を慰めてみる。



25年目のキス Never Been Kissed(1999年・米)
監督:ラジャ・ゴスネル
出演:ドリュー・バリモア、デビッド・アークウェット、ミシェル・バルタン他
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by yukotto1 | 2004-12-27 02:55 | 笑える映画