生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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交換と贈与と結婚-ディボース・ショウ-


DVDで「ディボース・ショウ」を観た。
「オーシャンズ12」でも共演している、ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズによる「大金持ちの結婚と離婚」をテーマにしたコメディ。
監督はコーエン兄弟。
おおよその期待通り、私好みのコミカルでシニカルでニヤリとする作品だった。



大学1年のとき、文化人類学の単位をとるために「交換と贈与と結婚」をテーマにしたレポートを書いた。
人間関係を、交換と贈与に帰着させて紐解く。

F教授の講義の中では、交換と贈与はこう説明されていた。

価値の等しいものが互いにやりとりされること、それが交換である。
つまり、交換とは、対等な立場において成立する。
言い換えれば、交換によって両者は対等な立場に置かれる。

ある価値が一方的に与えられること、それが贈与である。
あるいは、互いに与える価値が不釣合いな場合は依然それは一方から他方への贈与である。
言わば、贈与によって一方は他方に対して義理や序列を与える。

例を挙げよう。(実際にF教授が講義で挙げた例)

芝居小屋で隣におばあさんが座る。
芝居が始まるまでの間、少しおばあさんと会話を交わす。
おばあさんはみかんを持っていて、あなたにくれると言う。
ありがとうございます、と言ってみかんをもらう。

そのとき、あなたは何か、自分も返すものはないかと探し始める。
カバンを探ると飴があった。
あなたはおばあさんに、飴をどうぞと差し出す。
おばあさんは、ありがとうと言ってそれを受け取る。

あなたは、それで安心して芝居を見ることができる。

もし、カバンの中に飴がなかったら、あなたはどこか少し申し訳ない気持ちになるはずだ。
たまたま隣の席に居合わせただけのおばあさんの厚意に、何かお返しをしなくてはという気持ちが少なからずよぎる。
芝居の休憩時間にお菓子を買いに行く暇があれば、きっとそうするだろうし、それさえできなかったら、芝居が終わった後、また何度もおばあさんに頭を下げることになる。

なぜ、そう感じるのか。
それは、おばあさんがみかんをあなたにくれたことで、その贈与があなたとおばあさんの関係に序列を与えてしまったからだ。
あなたはその序列に居心地悪さを感じ、それを是正すべく、みかんと交換するための何かを探す。
交換によって、両者の関係を対等に戻そうとするのだ。

ここで一つ言えることは、交換により対等になった人間関係は簡単に切ることができるということ。
贈与により不均等になった人間関係はそう簡単に切ることができないということ。

見知らぬ人との関わりには、ひとまず人間はその関係を清算させたいという思いがある。
下手に関係を続けて行きたくはないのだ。
だから、おばあさんにみかんと交換に飴を渡す。

転じれば、人がプレゼントに見返りを求めるとき、その人間関係自体に対しては関心が薄いとも言える。
見返りを求めないときには、相手との関係をあえて切りたくないという暗示でもある。

皮肉だけれど、相手に対して求めれば求めるほど、その人間関係はいつ切られてもよいものになってしまう。
等価値の交換を求めた瞬間に、非常に冷めたものになってしまうのだ。
「あんなにプレゼントをしたのに、ツレない女だ!」なんて憤るとしたら、それは間違っている。
そのプレゼントに対して、いち早く何かを返さねばと思っている女性は、あなたとの縁を切りたがっている。
プレゼントは、「もらったからお返しに」じゃなくて、「あげたいから」であってこそ、関係をより強いものにする。

関係を強くするのは、交換ではなく贈与なのだから。

そこで、私がレポートのテーマとして絡ませたのは「結婚」である。

結婚は交換か、贈与か。

人が、結婚の条件としてあげつらうものは、つまり交換条件である。
自分の人生と相手の人生の交換条件。
男も女も、秤にかける。

私の人生とあの人の人生は、等価値か?

できるだけ価値の高い人生(人格やルックスや境遇や環境、全てを包含するものとしての人生)と結婚したいと思うのは、自分の人生にはそれだけの価値があると、どこかで思っているからだ。
自分の人生はまあこのくらいかな、と思うなら、まあこのくらいかな、という人で十分満足できる。
大事なのは、より価値が高いことよりも、等価値であるかどうか。

自分や相手の価値を見誤る、というケースも多々あるだろうけど、少なくともその時点ではお互いが人生の交換をしてよいと納得した上にしか、それは成り立たない。
どちらかの人生の方が明らかに価値があると思うなら、誰も結婚などしない。

つまり、本質的に結婚とは交換なのだ。
いともたやすく切れ得る、人間関係の形態の一つなのだ。

けれど、結婚がそんなに危ういものでは困る。
経済的な保護、精神的な安定、家族の育み。
そういったものを、結婚は守る。
結婚が破綻すれば、実際、生活していけなくなる人もいる。
ひとりで生きていくには、多くの人間は弱い存在すぎるのだ。

だから、法律によってその婚姻関係を守ろうというのが、人間自らが作り出したルール。
弱い人間を、法律によって守る。
それがなければ壊れてしまう危険性の極めて高い関係、それが結婚だとも言える。

映画「ディボース・ショウ」はそれを逆手にとって、計算ずくで大金持ちと結婚し、短期間で離婚して財産分与でがっつり稼ごうという美女と、そんな女から大金持ちを守るやり手弁護士の駆け引きの話。
立場は違うにせよ、結婚をビジネスとして捉えているふたりが、やがて恋に・・・?

本当に自立した人というのは、結婚というかたちに守ってもらわなくても、その愛を貫いていくことができる。
ちょうど私がそのレポートを書いた頃に事実上結婚した、ジャン・アレジと後藤久美子は、「法律的な結婚というかたちをとることでお互いの関係をゆがませたくない」と言って籍を入れなかった。
彼らが一緒に人生を歩むのは、誰かに強制されたり、決めつけられたことではない。
裏づけるものは、ただ愛のみだ。

と言っても、彼らのように誰もができるわけでないし、そうする必要もない。
(フランス人が籍を入れないのは、離婚するときの法的宗教的手続きが大変だから、というふうに聞いたこともあるけど)

結婚という制度は確かにあるのだし、そう深く考えず、そこにのっかったところで罰も当らない。
ただ、レポートにするために、ちょっと小難しく考えてみただけのことだ。
だから、こんなふうな見方もあるんだな、くらいに読み流して欲しい。

私とて、結婚に一塊のロマンチシズムも感じないわけがない。

F教授の講義は面白かった。
大学で学んだ中では最も心に残っている。
そして、F教授は、私のレポートに、大学4年間のうちでほとんどもらうことがなかったAをくれた、心優しい人である。



ディボース・ショウ Intolerable Cruelty(2003年・米)
監督:ジョエル・コーエン
出演:ジョージ・クルーニー、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、ジェフリー・ラッシュ他
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by yukotto1 | 2005-02-14 23:44 | 笑える映画