生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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偏西風のしわざ-太陽と月に背いて-

古い手紙やカードや、色々書類の束を繰っていたら、北京発ウランバートル行の列車の切符が出てきた。
もう7年前の夏の日付だ。

レモングリーンの毛羽立った紙面には、私には解読できないロシア語と、大学で少しかじったドイツ語が印字されている。

英語はない、「東」の匂い。

それは、シベリア鉄道の乗車切符。



まだ外が真っ暗なうちに起き出して、私たちは北京駅へ向かった。
深い緑色の車体は重量感がある。
古く、ごつい、鋼鉄の乗物。

私の大学4年の夏の旅は、中国とモンゴルだった。
なぜそこに行こうと思ったかはたまたまで、大学の友人の一人が北京に留学していたというのと、高校の同級生の一人がモンゴルに行きたいと言ったのが理由だ。

もっと遡ると、その高校の同級生というのが、学年でほんの10人も満たなかった「世界史・地理選択クラス」のメンバーの一人で、その「世界史・地理選択クラス」における共通の夢が、「シベリア鉄道に乗ること」だったことにある。

シベリア鉄道。
ユーラシア大陸をモスクワからウラジオストクまで7日間かけて横断する、世界一長い鉄道。
世界の肩幅を、肌で知ることができる、そしてどこか物悲しく気だるいツンドラとタイガ、湖と曇った空が連なる景色。
そういう「遥か」なイメージが、地理好きの心を刺激する。

高校での地理選択者というのは、年々減っていると聞くが、私の頃もとても少なかった。
その分、わざわざ地理をやろうと思う人というのは、地理が好きでそれを選択していたのだと思う。
スパルタ式の厳しい学校だったのだけれど、2年生以降の地理の授業だけは妙にみんなが活き活きしていたのが印象的だった。

※余談だけれど、同じ歴史だからとか中学までで日本史を結構やったからという理由で世界史と日本史を選択するのは短絡的。世界史が必修なら地理を選択する方が、受験には近道。

昔々、私が最初に入学して1年で辞めた大学での専攻は、「人文地理学」だった。
正確に言うと、文学部の1年生に専攻はないのだけれど、1年の頃から地理学の教授のところに押しかけて、ほとんど弟子入りのように先生にくっつき回っていたので、実際「専攻」に近い趣はあった。
「君みたいな学生は珍しい」と先生にも随分かわいがってもらって、私は地理学に賭す学生生活を描いていたのだけれど。

でも、人生何があるか分からない。
あっさり地理学から足を洗って、法学部に転向したというのは、また別のお話。

とはいえ、私はいまだ地理が好きなんである。

子供の頃、寝室の壁一面に大きな世界地図が貼ってあった。
その地図は、旅好きな叔父が独身の頃、私たちが使うよりも前にその部屋を使っていたときに貼ったもので、いい具合に褪せた色をしていた。
寝る前ごと、その壁の地図を眺めて、スカンジナビア半島は蛇の頭のようだとか、アフリカ大陸はそのまま南アメリカ大陸とパズルのようにくっつきそうだとか、アルプス山脈の流れが連なり連なりオーストラリアまで続く一本道に見えるとか、そういう類のことに楽しい夢を馳せた。

小学校の頃は、社会の授業が大好きで、資料集の各ページに載っていたコラムを自分のノートの空いているスペースに片っ端から書き写していった。
中学のときは、地図帳の索引にある地名をランダムに探したり、白地図に山脈や河川、炭坑や油田のマークを書きこんでいくことが好きだった。

そして、高校時代。
地理の資料集は、まぎれもなく私の愛読書だったけれど、単なる興味関心を超えて、そこに「真理」に近い偉大なるものを感じたのは、まさに高校の地理の授業だった。

断言するが、地理は暗記科目ではない。
何のロジックもないように言うなら、それはとんでもない間違いだ。

私たちの生活は何によって規定されるか。
私は、太陽と地球の関係によって全てが説明されると思っている。

太陽が地球のある土地に、ある角度で差し込むから、そこに雨が降る。
降る雨の量(気候)はその土地の土壌を決定づける。
土壌は植生を決定づける。
植生は農業を決定づけ、そこに棲む生物を決定づける。
生物(有機物)が化石になって石油や石炭ができる。
石油や石炭があるところに工業が起きる。
石油や石炭があるところは戦争が多い。

ロシアが凍らない港を求めて南下政策を続け、周辺の民族を併合してソ連ができていったこと。
鉄鉱石の産地アルザス・ロレーヌは常にドイツとフランスの係争の中心であったこと。
海と砂漠という自然の砦に守られていたからエジプトには巨大な王国が築かれ、無防備だったメソポタミアは常に外敵に攻め入られる地域で、結果的に権力が入れ替わり、紛争が絶えず、その苦境の下で数々の宗教を生み出したこと。

世界史や地理の授業で習うことばかりだ。
けれど、背景には常に自然の意思が働いていることが分かる。
それは一つ一つが物語であり、私はこういった物語に心が震えて止まないタチである。

最も感嘆したのは、産業革命における自然条件の働き。

グレートブリテン島の中央にはぺニン山脈が筋を作る。
ご存知のとおり、地球には偏西風という風が吹いていて、ヨーロッパの西を流れる北大西洋海流という暖流の上空を通って偏西風は暖かく湿った空気をイギリス西岸部に運ぶ。
その空気はぺニン山脈にぶつかったところで雲を作り、イギリス西部に雨を降らす。
代わりに東部は雨が少なく乾燥している。

それから、綿糸と毛糸の違い。
綿糸は乾燥していると切れやすいので、綿織物をするには、ある程度湿潤な土地でなくてはならない。
毛糸は湿気があるとのびてしまうので、毛織物をするには、ある程度乾燥した土地でなくてはならない。

つまり、イギリス西部は綿織物に向いていて、イギリス東部は毛織物に向く地域であると分かる。
事実、イギリス東部は14世紀頃から毛織物工業がさかんで、この背景には百年戦争の混乱を避けて多くの毛織物職人が対岸のフランドル地方から渡ってきたという事情もある。

一方、綿織物が産業革命の中心であることは誰もが知るところだ。
18世紀にイギリス人ジョン・ケイがその発明によって綿布の織機を飛躍的に進化させることがきっかけだ。
しかし、綿織物の原料となる綿花はイギリスでは収穫されない。

これも地理の授業で習うことだが、綿花は一定の気温と降水量がある場所でなければ栽培できない。
そこで、イギリスは北アメリカを植民地にし、アフリカから連れてきた黒人に大量の綿花を栽培させることにした。(もちろんインドもそう)
そうして、ここに三角貿易が成立する。

付随するエピソードは山ほどあるのだけれど、綿織物に適しながら綿花を栽培できない土地だったからこそ、イギリスは湿潤な植民地を必要とし、そこが新大陸という未開地であったからこそ労働力として黒人奴隷を必要とした流れは、歴史そのものであり、経済の成り立ちであり、戦争への序曲でもある。

地理学は、歴史、宗教、生物、地学、農学、経済学、天文学、そういった諸々の人文科学、社会科学、自然科学を説明するナットのような働きをする。
様々な事象、概念が結びついて、過去と現在、そして未来がどのような様相をしているかを言い表す多元的な学問だ。

いわば、地球という大いなるシステムの解釈。

それって、ちょっと真理っぽくない?

長々と書いたけれど、そんなわけで私は地理が好きだ。

どんな映画と結びつけて書こうかとずっと考えていたのだけれど、あまりぴったりと来るものがなかった。
苦し紛れに挙げるなら、「太陽と月に背いて」。

詩人ヴェルレーヌが若き才能ランボーとの許されぬ同性愛に身を投じ、その末にあらゆるものを失い、墜落していく様を描いていく。
「太陽と月に背いて」とは、原題「Total Eclipse(皆既日蝕)」につけられた邦題だけれど、この世をつかさどる「太陽」あるいは「月」という存在に、背かんとする人の愚かさの顛末を描くとも言える。
しかし、人もまた自然の一部たることを思えば、どこまでが反逆で、どこまでが大いなる意思なのか、まるで気が遠くなりそうだ。

(シベリア鉄道のその先の話は、次回の記事で書きます)


太陽と月に背いて Total Eclipse(1996年・英/仏/ベルギー)
監督:アニエシュカ・ホランド
出演:レオナルド・ディカプリオ、デイヴィッド・シューリス、ロマーヌ・ボーランジェ他
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by yukotto1 | 2005-09-20 00:05 | アートな映画