生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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おばあちゃんとエス-白い犬とワルツを-

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先月のことになるけれど、今年も祖母に敬老の日の贈り物をした。
銀座へ出かけ、目抜き通りのデパートを端から端まで歩き回る。

いかにも老人ぽいものをあげるのは嫌だし、月並みなものもつまらない。
そう思っていつもいつも悩むのだけれど、それでも結局無難なものに落ち着くことが多い。

今年も考えあぐねて、財布に落ち着き、自分の「とんち」のなさにややがっかりする。
一休さんになりたい。

ふと気づくと、財布が並んだガラスケースの上に、小さなキーホルダーが鈴なりになっていた。
手作りらしい革製のそれは、かわいらしくデフォルメされた様々な犬の色とかたちをしている。
ふと思い立って一つ一つ指でより分けていくと、遂にお目当てを見つけ出した。



茶色の革にところどころ黒いしるしをつけた、ジャーマンシェパード。
黒目がちの瞳と、ぺロッと突き出た赤い舌。

「エス、おった」

それはうちの犬。
私が18の夏、まだ子犬だった彼はうちにやってきた。

犬が将来どのくらい大きくなるかは、子犬のうちの足の太さでわかる。
エスについて言えば、全身の大方を覆う黒い毛に対して白い靴下を履いたようなたくましい足が、その先の成長を十分予感させていた。

エス、という名には「言われ」がある。
その音そのものにはおそらく何の意味もなく、「ポチ」とか「ハチ」と同列の庶民臭いレベルなのだけれど、ただ、彼は我が家のエスとして実に4代目を襲名していた。

最初のエスは、父がまだ幼かった頃、近所の神社の神主さんが大きなシェパードを飼っていて、それに子どもが生まれたということで譲り受けられた。
「エス」と名づけたのはひいおじいちゃんだったらしい。

父や祖母が言うには、初代エスは随分利口な犬だった。
昔のことで、ほとんど放し飼い状態だったのだけれど、エスは日がな遊びに出かけても必ず家に戻ってきたし、主人の言うことをよく聞いた。
彼は、神社生まれにふさわしい忠実さと品行方正さを持っていたのだと言う。

ある日、蛇に噛まれて死んだらしいが、しばらく姿を見せないと思ったら、軒下で末期を迎えていた。
「賢い犬は死に目は見せへんもんや」
という祖母の言葉が本当かどうかはよく分からない。

そして、「二代目のエスは命を救った」だなんて大袈裟な物言いだ。

私が小学校5年まで暮らしていた家は、玄関が道路より低い半地下にあって、駐車スペースを兼ねた玄関へ続く通路はゆるやかな傾斜になっていた。
道路との段差は高いところで70cmくらいあって、大人が腰かけても足が地につかずぶらぶらとする。
陽当たりの良い場所で、近所の人が昼下がりに寄ってきて、そこで談笑することもあった。

ある日、裏の家に住んでいた歩き始めたばかりの小さな女の子が、その段差をおぼつかないアンヨで歩いていた。
そのすぐ横で大人たちはいつものようにおしゃべりに耽っていて、目を離した隙に歩行経験の浅い女の子はよろめき、段差を踏みはずしたのだ。

あっと思った瞬間に、女の子は転げ落ちた。
それは肝が凍りつくような出来事で、大人たちはとっさに腕を伸ばすことさえできず、短い悲鳴だけが響いた。

けれど、女の子が体をぶつけたのは硬いセメントじゃなく、生温かく呼吸さえ繰り返す黒い体毛の上だった。
その段差の下に、エスがうずくまっていたのだ。
突然降ってきた幼い少女を振り落とすでもなく、彼はクッションのように女の子を守った。

すなわち、エスは命を救ったのだと、祖母は自慢げに言う。
私が生まれるよりずっと前のこと。

女の子は成長して裁判官になった。

三代目のエスは私が小学生のころに飼っていて、特段優れた犬だった記憶はないけれど、彼もまた黒くて大きなジャーマンシェパードだった。
我が家は必ずオスのシェパードばかり飼って、その犬にエスと名前をつけるのだ。

四代目エス、つまり、現役のエスにもまだ武勇伝はない。
ただ彼は、明確に家族と親族について見極める。

他人には必ず吠えるが、家族には吠えない。
彼がやってきた半年後には実家を離れてしまい、その後は年に数回しか顔を見せない私のこともきちんと理解していて、私が帰省すれば仰向けになって腹を見せる。

もちろん犬の嗅覚は私たちの想像の域を超えているわけだから、私が稀にしか彼の前に現れないとしても、あるいは私がいくら年を重ねようとも、そんなことは取るにたらないことかもしれない。
ただ彼が識別するのは、人の顔、声、匂いにとどまらない。
家族が乗っている車の音さえ理解するのだ。

父の車、母の車、弟たちの車。
それが家の前の砂利道を近づいてくると、たとえその姿が見えなくても、「キューキュー」と声をあげながら尻尾を振ってはしゃぎまわる。
エンジン音かタイヤの音か、定かではないが彼には分かるらしい。

しかし、何よりエスの素晴らしいところは、彼が祖母の最大の友人を務め上げていることだ。
祖母は一日中自宅にいて、ワイドショーを見たり、植木に水をやったり、それから親類と長電話する生活を送っている。
昼間は他の家族が仕事で外出しているので、祖母の他には誰もおらず、それは気ままな毎日でもある。

今はすっかり隠居をしたが、かつては家業の帳簿係だったので、きちんと勉強したことはないが経理や法律に案外と詳しい。
もう15年位前から母がその役をやっているので、祖母は現在仕事のことにはまったく関わっていないが、ちゃきちゃきとした人なので何らかの張り合いを常に求めるようでもあり、息子や娘や孫たちがそろそろ自分を頼らなくなるのは少し寂しいようでもある。

あるいは、自分が年をとったということを、体力の衰えや数え上げた80という年齢や、白髪や皺で感じるにつけて、物寂しい気持ちになるのだとこぼすこともある。
そして彼女は言う。

「エスの歯が抜けてな、あんたも年取ってんなあと思うたら、同情するねん。あんたも同じやなあ、思うて」

祖母は一日に何度もエスに声をかける。
昼間うちにいる祖母は、もちろんエスの餌もやる。

だいたい午後4時くらいになっておばあちゃんの顔を見ると、エスは「ごはんをおくれ」と鼻を鳴らす。
そうして祖母は「あんたおなかすいたんか」とかなんとか言いながら、彼に夕飯をやるのだ。

「おばあちゃん、旅行でも行ったらいいのに」と言うと、「エスに餌やらなあかんから」と頑なに家を空けることを拒否する。
祖母にとって「エスに餌をやること」は重要な仕事で、彼女なくして生きられない、あの黒くて大きく、従順で無邪気な生物が祖母の生きがいのひとつになっていることは違いない。

願わくば、もう12歳になるエスがまだまだ元気でいてくれること。
そうすればきっと、おばあちゃんも元気でいてくれるような気がする。

多くの映画や小説でも、老人と犬というのは心を通い合わせることが多い。
「白い犬とワルツを」のように、死んだ伴侶をその犬に投影することもあれば、「異邦人」のように愚痴ったりなじったりしながらもかけがえのない存在として命をともにすることもある。
たとえば童謡「おじいさんの時計」みたいに、チクタクチクタク、同じように鼓動する一生の刻み。

敬老の日。おばあちゃんへの贈り物。
包装係の方にお願いして、財布を収めた箱の隅に、無理やりキーホルダーのエスを入れてもらうことにした。
財布が変なかたちにへしゃげないかと心配になったのだけれど、それを見透かしたように店員さんは「大丈夫ですよ。傷がつかないようにしますからね」と言ってくれた。

9月19日の昼に父から電話があって、それから受話器を受け取った祖母は「おばあちゃんが犬好きやから、犬も入れとってくれてんな」と嬉しそうだった。
「エスみたいやろ?」と言ったら、「ほんまやな、エスみたいやな」と機嫌が良かった。

彼女には、いつまでも幸せでいてほしい。



白い犬とワルツを(2002年・日)
監督:月野木隆
出演:仲代達矢、藤村志保、南果歩 他
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by yukotto1 | 2005-10-10 02:06 | 切ない映画