生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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その花が美しい理由-薔薇の名前-

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言葉では、如何ともしがたいものがある。
説明したくても、どんなに言葉を尽くしても、表現しきれないものがある。

まして、当事者ふたりにしか分からない、特別なもの。

「一般論」は諸刃の刃だ。
目の前で起きたことの解釈には、とっさにそれを当てはめてみたくなる。
他方で、それが何一つ答えを導かないものであることも嫌というほど知っている。

そしてまた、ひとたびそれが現れたら、思考をがんじがらめに縛るから厄介だ。



「薔薇の名前」という映画がある。
これは私の特に好きな作品だ。
中世キリスト教世界の幻想と倒錯、歪みと軋みを、卓抜した筋書きでミステリーに仕上げ、ロジックと官能的匂いを両方兼ね備えた魅惑を醸す。

作品中、壮大なメタファーとして語られているのは「目に見えぬものの存在」ではないかと私は解釈している。
それは、タイトルにも通じる。

「薔薇はなぜ美しいか」

その花が美しい理由をあげつらうにあたり、それが「薔薇であるから」などという説明をする人がいるだろうか。
薔薇だから美しいのではない。
かりそめに薔薇という名がなくとも、その花はそこに咲く限りにおいて美しいのだ。

「恋人はなぜ愛しいか」

その理由をあげつらうにあたり、それが「恋人であるから」などという説明も当然のことながら当てはまらない。
恋人だから愛しいのではない。
かりそめに恋人という呼び名でなくとも、その人はそこに佇む限りにおいて愛しいのだ。

重要なのは、「愛しさ」という事実だけ。
それを一般論に追いやろうとしても無駄だ。
自らの過去や経験が築き上げてきた「定義」でさえ、意味をなさない。
枠になど、はなから入らない。

言葉はすぐに型にはめようとする。
そこに当てはまる当てはまらないの基準が、意識や言動まで束縛してしまう。

薔薇が美しく咲くために、薔薇という名など必要ない。
名を捨てたとき、何が見えるか。

そのベルベットのような花弁のやわらかさ。
その茎を伝う雫の瑞々しさ。
その罪深い棘の妖艶さ。
それが名を捨ててなお、輝くかどうか。
名を捨ててなお、胸を焦がすかどうか。

薔薇は薔薇。ロミオはロミオ。

誰かがそれを野草と呼んでも、薔薇は薔薇。
その名とその美しさの、信じるべきはどちらか。

誤解を恐れない関係とは、尊いと思う。
言葉などなくても、通じ合えるとすればこの上ない。

その花に名前はない。
その花は、ただそこに咲く限りにおいて美しい。



薔薇の名前 The Name of the Rose(1986年・仏/伊/西独)
監督:ジャン・ジャック・アノー
出演:ショーン・コネリー、F・マーリー・エイブラハム、クリスチャン・スレーター他
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by yukotto1 | 2006-01-14 18:34 | ぐっとくる映画