生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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隠し味-タッチ・オブ・スパイス-

先週の火曜、沖縄から戻ってきたその夜、NHKで「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組を観た。
プロジェクトXは名も無きサラリーマンというのをフォーカスしたものだったが、この番組は、経営者や外科医、アートディレクター、弁護士といった個人の腕で勝負する「知る人ぞ知る」一流の人を紹介するドキュメンタリーのようだ。
ただなんとなくテレビをつけていたら目にとまったので、「ふうん」と観ているとなかなか引き込まれた。

目が留まった、というのは何に対してかと言うと、トロッとしてツヤツヤと光るチョコレート。
なめらかで美しく、観ているだけなのに甘さと苦さの混じった官能的な香りが伝わりそうな色艶。

今回紹介されていたのは、杉野英実というパティシエだった。



私はあまり甘いものが得意ではない。
全てのスイーツが嫌いなわけではないが、好んで食べられるデザートの種類と言うのが限られている。
生クリームやモンブランなどのあまあく、濃厚なクリームが苦手なのだ。
あと、煮たり焼いたり干したりしたフルーツも苦手。
つまり、アップルパイや干し柿はNG。
プリンやムースやチーズケーキ、アイスクリームなど、軽いタイプのものはむしろ好きなのだけれど、いずれにしても大量には食べられない。
いわゆるケーキバイキングの類にまったく関心が無い、我ながらかわいげのない婦女子だと思う。

そんな私が目を留めたのは、杉野氏の作るケーキがあまりに美しかったからであり、彼の「当たり前が一番むずかしい」という言葉に職人魂を感じたからに他ならない。
彼のケーキはまるで宝石のように映った。

番組終了後に「杉野英実」でインターネット検索すると、彼の店が東京、京橋にあることが分かった。
以前は神戸で店をやっていたらしい。

その翌々日の木曜日、銀座方面に出る用事があったので、京橋まで足を運ぶことにした。
テレビを観てその店に行ってみようと思うなんて初めてのことだが、せっかく仕事も休みだし、そういう気ままな過ごし方がちょっとしたいい気分だったのだ。

15時ごろ、店に向かった。
随分と裏通りにある小さな店で見つけづらかったが、番組の映像の記憶も頼りにしながら画廊の多い路地を行く。
ようやく発見した店の前には、何人かの人がいて、エントランスに立った店員と言葉を交わしている。
なんと、もうケーキが売切れてしまったらしい。

さすがにテレビの反響は大きいようだ。
17時閉店だが、15時にはもう売り物がない。
甘く見てたなと反省して、しかたなく撤退することにした。

銀座まで歩き少し買い物をして、知人との待ち合わせまで時間をつぶそうとしていたところ、ちょうど彼から電話が入る。
向こうも仕事の合間で時間が空いたらしく、お茶でもしようかという話になって、銀座で落ち合うことになった。
私が杉野氏の店の話をすると、私と違って甘いもの好きの彼はぜひ食べてみたいと言うので、「じゃあ、明日もう一回早めに行ってケーキを買ってくるよ」とランチの約束をした。

10時開店の店なので、10時半に行けばさすがに売り切れていることはなかろうと踏んで、翌日再び京橋へ向かう。
前日に食べられなかった分、期待は高まる。

ところが、朝っぱらから店の前には長蛇の列。
10時半では遅かった。
私はそれから約1時間半その列に並び、ようやくショーケースの前に立つことができたのは、たっぷり余裕があると思っていたランチタイムギリギリだった。

1時間半もあると、前後の客と話もする。
私の直前に並んでいたおじさんは熊本からの客で、東京には仕事で訪れたようだけれど、番組を観た奥さんに頼まれて買って帰るのだと言っていた。
手にはお店の紹介がされたWebサイトを印刷した紙がしっかりと握られていた。

後ろに並んだ二人連れの女性は、めいっぱいたくさん買っていきたいと言っていた。
その日、お一人様6個までと制限が出ていたが、彼女たちはイートインとテイクアウトを足して6個なのか、それぞれ6個なのかというのを非常に気にしていた。

私は、平日の昼間からこんなふうに行列に並べるということ自体がなぜかむしろ嬉しかった。
この自由さとかゆとりとか、この数年、ありえなかったことにこっそり感激していた。
だから、待つのは全然つらくない。

ただ問題は、ケーキがちゃんと残っているかどうかだった。
店の外から眺めると、ショーケースの中のケーキはどんどん減っていっていた。
「あれ、追加されるのかしら?あれっきりなのかしら?」
前後に並んだ客たちは口々に不安を言い合っていた。

そして、不安を増幅させるようにテレビでも見覚えのある店の美人マダムが出てきて、「もしかしたら生菓子のご用意はないかもしれません」と私たちに告げた。
確かに、ショーケースの中にはおよそ30個ほどのケーキ、私の前にはまだ15人ほどいた。

ここまで待って買えなかったら、かなり悔しい。
それ以上に、この私の直前に並んだ熊本から来たおじさんが気の毒だ。

マダムは言った。
「残りが大変少なくなっておりますので、できるだけ多くのお客様にお求めいただけるよう、お買い求めの数はできるだけ少なくしてくださいますようご協力お願いします」

まったくそのとおりだ。
どうか、お願い。前に並んだ人々よ、欲張らないで。

祈るようにしながら、少しずつ少しずつ、私の番が近づいていく。
残りがもう15個もない、そういうときに大胆にも「じゃあ、全種類ちょうだい」と言い放つおばさん。
この、欲張りめ!

もう無理か。
あきらめてクッキーでも買っていくしかないか、と思ったとき、かわいらしい色合いのケーキを並べた銀色のプレートを両手に掲げ、パティシエ杉野氏本人が二階の厨房から降りてきた。
コック帽をハスにかぶった感じが、実に頑固な職人ぽくてかっこいい。

「今日はこれで最後です」
そう言ってショーケースには、30個ほどのケーキが追加された。
どうやらこれで、私にもまわってきそうだ。

熊本から来たおじさんの番が来た。
彼は待っている間、ずっと不安そうな顔だった。
私は「買えて良かったですね」と言うと、おじさんははにかんだ。
せっかく遠くから来ているのだ。
奥さんの分だけじゃ足りないだろう。
お子さんやご両親の分だって必要だ。
彼がたくさん欲しいと言って、それで仮に私の分がなくなっても構わないと思った。

けれど、彼はとても謙虚にたった2つだけ買ったのだ。
彼の前にいた人は6個めいっぱい買っていった。
でも彼は、ちょっと伏目がちに2つだけ注文した。

もしかしたら、奥さんとお子さんの分だけで、自分の分はなしかもしれない。
もっと買っていいですよ、と言いたかったけれど、待っているのは私だけじゃなく、ヒヤヒヤしながら残りの数を数えている待ち人たちもいることを思うと、そうは言えなかった。
私の後ろには、もう絶対に買うことはできないだろうに、まだ50人以上並んでいたのだ。

ケーキを買いにいっただけなのに、思いがけず少し切なくなった。

そしてついに、私の番が来た。
もはや、どのケーキにしようかなと選ぶ余裕はない。
残ったものから選ぶより他ない。
でも、どれも丁寧な作りで、本当においしそう。

私が買う数は2つ。
それ以上、買う必要がない。
私と彼の二人が食べられればいいし、私ははなからたくさん食べられない。
もっと数に余裕があったなら何種類か選んでみるのもよかったかもしれないが、夜に別の予定があったのでケーキを長時間持ち歩くのも良くない、ランチの後に食べきれる量に限ろうと思っていた。

いただいたのは、バルケット・オ・マロンというヘーゼルナッツムースにマロンクリームを絞ったケーキと、ムラング・グロセイユという赤スグリを散りばめたカスタードクリームをメレンゲで包んだ白くて丸いケーキ。

レジでマダムが「ご協力ありがとうございます」と言ってくださって、私は別に何かを諦めたわけじゃないので全然いいのだけれど、同じことを熊本から来たおじさんにも言ったんだろうなと少しほっとした。

小さな箱に収められたかわいらしいケーキを手に、私は満足な気持ちだった。
長い列に並んだことも、熊本から来たおじさんがケーキを買えたことも、私がケーキを買えたことも、マダムがお礼を言ってくれたことも全部満足だった。
ランチの後、買ったケーキをどこで食べるか思案した挙句、タリーズで店員の目を忍び、ふたりで分け合いながら頬張ったことも。

ケーキの味は見た目を上回る精緻さで、スイーツにはまったく詳しくないのだけれど、一口食べて「あ!」という感激のある食感と多層な味わいに驚いた。
杉野氏は自らが過去に経験したあらゆる味の記憶から、その組み合わせの創造性で新たなスイーツを考案するのだという。
それは以前の記事で触れたクリスタライズド・インテリジェンスそのものなのだが、番組の中でもプレゼンテーター役の脳外科医の男性が「それこそ現在の脳医学の最先端なんですよ」とコメントしていた。
シェフやパティシエというのは確かに、クリエイティビティが大いに試される偉大な職業だと思う。

映画「タッチ・オブ・スパイス」では、多種多様なスパイスによって奥行きと広がりを見せる料理の世界を、宇宙の壮大さに見立てながら表現している。

空には目に見える星と目に見えない星があるように、料理の中にも「目に見えなくてもそこにある」ものがあり、それこそが深い味わいを生み出している。
杉野氏が昨年のクリスマスに新作として作ったケーキには、胡椒が隠し味として使われていた。

人生に必要なスパイスも、目に見えずしてそこにあり、よく知った味がまた新しい世界を開く、そんなことなど考えた。



タッチ・オブ・スパイス A Touch of Spice(2003年・ギリシャ)
監督:タソス・プルメティス
出演:ジョージ・コラフェイス、タソス・バンディス、マルコス・オッセ他
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by yukotto1 | 2006-01-31 21:03 | 考えてしまう映画