生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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ワールド・トレジャー・ハンティング-ダ・ヴィンチ・コード-

レオナルド・ダ・ヴィンチという人は、私にとって昔から無視できない存在だった。
なぜかというと、彼と私は誕生日が同じ「だった」からだ。

小学生のとき、「誕生日事典」のような代物で、自分と同じ誕生日の著名人を探したら、そこには見知らぬ難しい名前と有名な肖像画が載せられていた。
本当は美人女優とかと同じだったらいいと思っていたのに、ハゲで髭面のおじいさんと同じだなんて、なんだかショックだったのを憶えている。

そのハゲで髭面のおじいさんについて調べると、彼が何者なのか余計に分からなくなった。
どこかで見覚えのある「モナ・リザ」という絵画を描いた画家かと思いきや、数学や天文学、解剖学など多岐に渡る科学分野の研究者でもあり、音楽にも精通していた。
この人の職業が何なのか、誰も言い得ない。
ただ人は、彼を称して「天才」とした。



世界史を紐解いても、「天才」と呼ばれる人は少ない。
仮に呼ばれても「音楽の天才モーツァルト」だったり、「絵画の天才ピカソ」だったり、「天才物理学者アインシュタイン」だったりと、その活躍分野は大抵限定されている。
しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチというのは、ただ純粋に「天才」なのである。
どこか人類が踏みこめないほどの境地に佇む、ある意味では奇形のような扱いを受けている。

ルーブル美術館における「モナ・リザ」の扱いもまた、理由がわからないほど特別だ。
そこに飾られた全ての美術品は、歴史的にも芸術的にも貴重で崇高で特別なものばかりのはずだが、その中でも「モナ・リザ」だけは特別な部屋を与えられ、その部屋に入るために来場者はロープで仕切られたスペースに列を作らされ、立ち止まることも許されずベルトコンベアに乗ったようにその微笑を垣間見ることしか許されない。
ルーブルの至るところで「モナ・リザはこちら」という矢印を目にすることができ、広い館内で迷子になってしまった哀れな客にも、ただ一つだけ必ず見るならこれという示唆を与えている。

かく言う私も例に違わず、あの広大なルーブルで、そこを訪れた二度ともやはり「モナ・リザ」を崇めた。
奥まった場所に鎮座した「微笑」よりは、踊場に突如そびえる「サモトラケのニケ」の衝撃の方が実際には随分大きかったが、それでもやはり「モナ・リザ」ははずせない。

とにかく、ダ・ヴィンチと「モナ・リザ」は特別なのだ。

ダ・ヴィンチは飽き性だったのではないかと思う。
彼が描いて後世に残した絵画はたった17点。
生涯画家だったわりには、完成させた作品が少なすぎる。
それどころか、当の「モナ・リザ」さえ未完だと言うのだから、ある意味では気の長い性格なのかもしれない。
ただ、彼は何千の描きかけのスケッチを残していると言うから、インスピレーションに任せて描き始めてはそれが途切れると放り出す、そういうスタイルの画家だったのだろう。

「万能の天才」と称されるが、実際のところ、ひとつのことに集中しきれない気の多い性格で、彼の「発見」を綴った数々のノートと言うのも、あれやこれやの思いつきの寄せ集めだったようにも思えてくる。
もちろん、普通の人のらくがき帳とは違って、彼の中には体系だった論理があり、「百科事典作ってみたら面白いかも」とか、「人体の機能をごく詳細に網羅したら楽しいかも」という、無邪気な知性の体現だった気がするのだ。

私も色々ひらめいてはすぐに飽きてしまう性格なので、同じ誕生日の彼もきっとそうなんだろう、なんて私は勝手な納得をした。
しかし、この仮説はくずれる。

先ほど、私と彼の誕生日は同じ「だった」と書いた。
というのは、実は、誕生日は同じではなかったのだ。

小学生のとき見た「誕生日事典」の記述に誤りがあったのか、私が検討違いのページを見ていたのか、あるいは全部夢なのか、真相は不明なまま、つい最近、私たちの誕生日は実は全然違うということを知った。
私は5月31日生まれで、ダ・ヴィンチは4月15日生まれなのだ。(ダ・ヴィンチの誕生日が陰暦だとすると結構近い日になりそうな気もするが、まず陰暦とは考えにくい)

私は20年以上自分と同じ誕生日の偉人はダ・ヴィンチと信じてきた。
それだからゆえに、彼に対して少なからずのシンパシーを感じてきた。
それが崩れたとなっては、なかなか大きなアイデンティティ・クライシスである。(ウソ)

まあ、勘違いであったのせよ、長きに渡って「無視し切れぬ存在」だった「ダ・ヴィンチ」の名を冠した映画。

公開初日に映画を観るなんて初めてのことかもしれないが、あらゆるメディアでここまで宣伝をされていちゃ夢に見そうな勢いなので、半ばマインドコントロール状態で話題作「ダ・ヴィンチ・コード」を観賞した。

煽りに煽ったせいで期待がとんでもなく高まっていたが、実際のところ、マスコミにさえ公開されたのがつい数日前のカンヌ映画祭オープニングだったわけで、それ以前には誰もその出来栄えを知らないにも関わらず、ここまで話題が先行してしまったというのは、なかなかすごい話である。
そんなイソップ童話があったような、なかったような。

確かにそれは、考え抜かれた巧妙な「謎解き」物語で、キリスト教の歴史について相応の知識さえあれば、心ざわめく壮大なロマンだと言える。
けれど、キリスト教に関して「キリスト様は神様だ」くらいの知識しかない人にとっては、つまり大多数の日本人にとっては、かなり難解にも映るだろう。

映画館を出たとき、若い男の子が連れの女の子に一生懸命さっき観たばかりの映画の筋を説明している姿を見たが、彼女は、誰が敵で誰が味方かという根本的な問題で混乱してしまったようだ。
金銭や愛憎が生んだ事件ではなく、信教の寄るべの対立が背景である以上、宗教や歴史を知らなければ、誰と誰の利益が相反し、何のために殺人が起きたり、主人公たちが危険な目にあったりするのかさえ理解するのは難しい。

私に関しては、2年前、キリストの受難について描いた映画「パッション」を観ていたことが大いに役立った。
「ダ・ヴィンチ・コード」で鍵となる人物マグダラのマリアをビジュアル的にイメージすることができたからだ。
「パッション」は新約聖書の世界を記述に忠実に再現した重々しい作品だが、キリスト処刑の生々しくも崇高なシーンなど、キリスト教やイエスに対する知識がまったくない人にとっても、心に迫るものがある。
これは言わば「キリスト教の基礎」的な映画で、それを知っておくのは、「ダ・ヴィンチ・コード」に限らず、多くの映画や絵画や演劇、文学とあらゆる西洋文化を理解するのに役立つことのように思う。

それに加えて、高校時代に学んだ多少の西洋史の知識を総動員しながら、緊張感をもって2時間半の大作を観た。
感想は、「結構面白い」である。

前代未聞のプロモーションと比してどうかと言われれば、そんなに騒ぎ立てられたわけでなくとも心が震える作品というのは数多あるわけで、「ダ・ヴィンチ・コード」がそこまで特別なものであったという意識はない。
ただ、設定そのものや謎解きのスケールの大きさなどは、やはり世界で5000万部売り上げたという原作の力によるものだろうが、なるほど抜群に面白いと思う。

なんというか、地球レベルのパズルを解くような感じ。

劇中でも「トレジャー・ハント」と言っていたが、幼い頃、弟たちとよくしたゲーム。
名刺大に切ったチラシの裏に「ベッドの下」と書いて弟に渡す。
ベッドの下に行くと「冷蔵庫の中」という紙があり、冷蔵庫を開けると「洗濯機の中」の紙がある。
そうやって行く場所行く場所に指令になる紙があり、次々と家の中を宝探ししていく。

それが、歴史的建造物を舞台にしたゲームになっていたら。
ルーブル美術館からフォンテーヌブローの森へ、銀行の貸し金庫からウェストミンスター寺院へ。
舞台装置はとにかく豪華で、謎は実在する有名な絵画や彫刻に隠されている。
しかもそれは、何百年も前から解かれることを待っているのだ。

歴史的な偶然を、捻りに捻ってこじつけるように大胆な解釈を与えたのが「ダ・ヴィンチ・コード」というフィクションの正体だが、その精巧さが類を見ないので、「もしかしたら本当かも」という人の妄想を導くだけの威力がある。
そしてまた、確かに、後世の人間を混乱させて楽しむくらいの調子で、「また面白いことひらめいちゃった」天才ダ・ヴィンチが、そんないたずらな謎を仕込んでいてもおかしくないかもしれない。

真実はどこかにある。
けれど、必ず誰かがそれを知っているとは限らない。
知られないままの真実もあるし、真実の顔をした嘘もある。

ダ・ヴィンチが言ったら全て本当かというと、そうではなかろう。
教会が言ったら全て本当かというと、そうでもなかろう。

世界はミステリアスなものだ。


ダ・ヴィンチ・コード The Da Vince Code(2006年・米)
監督:ロン・ハワード
出演:トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ、イアン・マッケラン他
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by yukotto1 | 2006-05-21 01:48 | 迫力系映画