生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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耳の裏の世界-ホリー・ガーデン-

私は本を読むのが遅い。
今読んでいる文庫にしても、最初に手をつけたのは4月の終わりだから、300ページ余りを読むのにもう1ヶ月かかっている。

それは確か土曜日で、ランチにカルミネのピザを食べようと目白駅で待ち合わせをし、約束の時間ちょうどに彼に電話をしたら、昨晩も遅くまで働いていた彼はその電話で目覚めたのだ。
仕度をして電車に乗って来るとしたら、どんなに早くても1時間は遅刻するだろうと踏んで、迷うことなく私は本屋に直行した。
その1週間前に「陰日向で咲く」を読んでいて、なんとなく小説が読みたい気分が高まっていた。



思いつきに本屋に入り、これといって目当ての本があるわけでなく書棚を物色するとき、私はそのひとときのフィーリングに呼応する一冊を慎重に探す。
それは、チリンチリンとベルを鳴らしながら、微妙な音程を調律よろしく探るような感じだ。
タイトルと作家の名と背表紙に書かれた簡単な説明、それから目次と最初の数ページ。
情報はそれだけあれば十分で、あとはそのテーマやテイストを「これかしら?」「それともこれ?」と、自分の心の奥というよりは表面を包む柔らかいローブのひだみたいな部分に問いかける。

私はそれを素敵な作業だと感じているし、あるいは読書そのものより好きな時間と言えるかもしれない。
そうやって、普段なにげなく「はしょって」しまっている、自分の心を注意深く見つめることができるからだ。

重くシリアスな翻訳小説が読みたいときもあれば、軽く現代的な恋愛小説が読みたいときもある。
ポップなエッセイが読みたいときもあれば、100年も前に書かれた純文学が読みたいこともある。

十数冊にあてがった「調律」の結果、その日の私は江國香織の「ホリー・ガーデン」に共鳴した。
自分を投影できそうな、30前の独身女性の日常におけるアレコレと感情を丁寧になぞる長編で、あとがきに「余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。そういうものばかりでできている小説が書きたかった」とあり、そうだ、私はそういうものを読みたいと思ったので決めた。

本屋を出て、ドトールでそれから1時間、読書に耽る。
お腹は少しすいてきたけれど、うまい具合に「ジャズってしまった」一冊の小説がある限り、レストランのランチタイムに間に合いさえすれば、待ち時間はむしろ歓迎だ。
そのつもりで最初に「ゆっくり来てくれていいよ」と言ったのだけれど、きっと彼はあわてて来るだろう。
待ち合わせ相手からの電話で目が覚めることほど、自分を責めたくなることはない。

約一月の間、「ホリー・ガーデン」の世界を懐に隠して生活をした。
読みかけの小説を持ち歩く日々は、その物語の空気が耳の裏あたりにオーデコロンのようにまとわりつく。
特別登場人物の誰かに感情移入しているわけではないのだが、作品が持つ雰囲気のようなものが現実を侵食してくるのだ。
その感覚が私は決して嫌いではない。
実を言えば、そうやって現実を一部分だけ侵食してくれるような作品を、いつだって私は求めている。

私が本を読むのがひどく遅いのは、言葉の一つ一つを咀嚼しながら、無謀にも物語の全てを頭の中で完璧に映像化しようと試みているからだと思う。
ひとつの台詞を言うとき、主人公はどんな表情をしたか。どんな語気で、言い切ったのか言いよどんだのか。
どんな服装をしているか、顔立ちや声はどんなふうなのか、文章に書かれていることはもちろん、いないことまで想像する。

登場人物の住む部屋の間取りや、壁紙の色を確かめる。
そのとき飲んだコーヒーの香りを自分の鼻で嗅いでみる。
肌に触れた空気の温度や湿度を、自分の皮膚で体感してみる。

もちろん、すべてイマジネーションの中で。

気分がさらに乗ってくると、カメラワークやカット割りを考え始める。
ここでは震える指先を、ここでは引きで遠景を映そう。
沈黙の長まわし、回想から現実へ構図をかぶらせよう。

映画ができてしまうのだ。
だから、時間がかかる。
だから、とても楽しい。

中学生の頃などは、機動戦士ガンダムの小説を好んで読んだ。
頭の中で宇宙空間における縦横無尽な戦闘シーンを再現することがたまらなく楽しかったのだ。
アニメではなくあえて小説であることが、よりその世界への没頭感を強めた。

映画作りの肝心な仕事のひとつはキャスティングだ。
だから、小説を読み進めながら、登場人物にぴったりの実在の役者をイメージする。

私はこれがとても得意で、昔、人に勧められて「ラッフルズホテル」という村上龍の小説を読み、その感想として「主人公の女性は藤谷美和子みたい」と言ったところ、実は「ラッフルズホテル」がそもそも映画のノベライゼーションで、その映画の主演女優こそ藤谷美和子その人だったということがある。
もっとも、それはむしろ、的確なイメージを呼び起こさせた村上龍の筆力と言うべきだろうが。

「ホリー・ガーデン」でも、私は主要人物たちの配役について考えていた。

背が高くて長い髪をして少し骨ばった体格と顔立ち、毅然としてストイックで、けれど情に厚い美術教師「静枝」は滝沢沙織。
人懐っこく無邪気で、年上の片想いの女性におおらかな愛をまっすぐに注ぐ25歳の眼鏡店員「中野」は佐藤隆太。

たいていの人物については物語の序盤で想像がついたが、ただひとり、最重要な人物「果歩」だけはなかなかイメージが浮かばない。

果歩は静枝と小学校からの親友だが、静枝とは容姿も性格も対照的な人物とされている。
料理が得意だがひとりで食事をするのが嫌なので、必ず毎晩女友達を自宅に招いて夕食を振舞う。
小柄で、やわらかく細い栗色の髪をして、それが肩のあたりでふわふわと揺れる。
仕事場の眼鏡屋には、だて眼鏡をかけて行くのが習慣で、やわらかい素材と色の服を好み、よくミニスカートを履いている。
男性に好かれやすく簡単に体の関係をもつが、心は決して誰にも所有されないと決めこんでいる。
本心であろうがなかろうが笑顔を作るのが得意で、常に穏やかで気を荒げることはない。
けれども鬱積として極めて不安定な精神をもち、ちょっとしたことで内心は混乱したり沈んだりする。

そんな果歩。
最もイメージに近いのは宮崎あおいなのだが、さすがに三十路直前の役には若すぎる。

物語が終わりにさしかかって、ふとひらめいたのが、釈由美子。

かわいらしい系の外見に対して、不気味なほど開き直った泥臭さのある女優。
どこまで行っても洗練しきらず、それを自覚した上で確信犯的に媚びた顔を作る。
まるで有無を言わさぬ不思議なパワーを帯びた彼女は、達観した目で冷たく世間を見据えているようだ。

そうやって配役が決まると、なぜだかほっとする。
登場人物に顔がつき、声だとかしぐさだとかが身近になる。

私がその世界を耳の裏に隠して生活していることを誰も知らない。
どんな映画を一人で作って一人で観ているか、誰も知らない。

そうした途端、人生が重奏になったと感じられることは、私だけの秘密である。



ホリー・ガーデン(1994年・日)
著者:江國 香織
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by yukotto1 | 2006-06-01 00:54 |