生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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チョコミントとコーヒー-セロリ-

彼女の中では、チョコミントほど「誰が食べるのか分からない味」はないらしい。

一方、彼女は、コーヒー味のアイスクリームが大好きだと言う。
コーヒーをそれほど飲むわけではないが、アイスクリームとなると、「あれほど豊かな味わいはない」のだそうで。

私は、コーヒー味のアイスは嫌い。
コーヒーは好きだけれど、コーヒーアイスは嫌い。

好き嫌いが生まれるメカニズムは知らないけど、同じものでも人によって好きだったり嫌いだったりする。

そんなの、あまりにも当然だろうか。
でも、改めて考えると不思議な感じもする。



たとえば、関西人の私は納豆が食べられない。
それは、自分の生まれ育った食習慣にないものだからだ。
私が当然のようにそう言うと、東の人は「関西人ってほんとに納豆食べないんだね」なんて言う。

その口ぶりに半分以上驚きが含まれていることは、逆にこっちがびっくりだ。
納豆を食べるなんていう奇怪な行為をスタンダードに捉えて、そうではない人間を特殊だとする発想が、その発言の裏には存在しているからだ。

関西人が納豆を食べないということは、確認したり感心したり驚いたりすることじゃない。
全く逆の立場の私からすれば、納豆を食べるなんていう自らの特異性を彼らは十分認識すべきだと言いたい。

どうせ、私がこんなふうに思うこと自体、彼らにはびっくりなのだろうけど。

びっくりどうしがいたちごっこの末、正面衝突する。

地域文化や県民性で説明がつく話は、それでもまだ合理性がある。
とんねるずがやっている「食わず嫌い王決定戦」を見ていると、まさに人には想像の及ばない食わず嫌いが隠されている、と思う。

たとえば、レバーが嫌いとか、ウニが嫌いとか、カキや羊肉やセロリが嫌いとか、そういうものは理解できる。
味や匂いや食感に癖があって、好きな人は好きだけど、嫌いな人もいるだろうと容易に想像できるもの。
そういうものを人に出すときには、皆、気を遣って「○○は食べられますか?」と尋ねる。

しかし、これが食べられない人なんて、まずいないだろうというものを嫌いな人も確かにいる。

バナナが嫌いな勝俣州和。
卵焼きが嫌いな渡辺満里奈。
鶏の唐揚が嫌いな木村カエラ。

これらはいずれも、世の中に、それが食べられない人がいるなんて考えられないほどの、ド定番ではないか。
迷ったら、居酒屋で必ず頼むメニューじゃないか。

しかし、それを食べられない人が現実にいる。

大切なことは、自分の想像の及ばない食わず嫌いが、思いもしない人に存在しているということで、それを予め覚悟しておくということだ。
そうでなければ、知らない間に相手を不機嫌にさせてしまったり、困らせてしまったりしかねない。

食べ物の好き嫌いなんて分かりやすいほうだ。
気持ちのよいこと悪いこと、美意識、金銭感覚、善悪の意識。

ありとあらゆる好き嫌いが、ありとあらゆる人との関わりの中に潜んでいる。
いわゆる価値観、というやつ。

30年以上も生きてきて、最近、そういうことをよく思う。
私が、私の立場に立って、良かれと思うことがよくなかったり、逆に、相手の無情な行為には、なんの悪気もなかったり。

そんなひとつひとつに振り回される毎日は、面倒くさい。
人の気持ちを読むことも、人の言動に傷つけられることも。

だけど、それが現実だ。

面倒くさいけど、ひとつひとつ拾い上げて、丁寧に対処していかなければいけない。
それが人と関わって生きるということだし、その見返りに、人から得ているものはあり余るほどある。

好き嫌いがぴったり合っているということよりも、面倒くささがかけらもないということよりも、もっと大事なものがあるだろう。

「セロリ」という歌は、本当に的を射ている。

大切なことは、自分の想像の及ばない食わず嫌いが、思いもしない人に存在しているということで、それを予め覚悟しておくということだ。

それをそのまま受け容れて、想像力をめぐらして、恐れずもっと近づいていこう。

もっと。



セロリ(1996年・日)
作詞・作曲・歌:山崎まさよし
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by yukotto1 | 2008-09-01 00:37 | 音楽