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生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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確信-まぼろし-

混沌を漂う会話の合間、ふいに、同じ故郷をもつその友人が、地元に帰ろうと思うことはないかと私に尋ねた。

私は、ちょっと椅子にかけなおす。

ほとんど疑問なく生活してきたけれど、最近になって、家族と離れて暮らしている現状について考えることが増えたのは事実だ。

私の生きる場所は、もう東京にしかない、そう思う。
だけど、理由を振り返ってみると、その基盤は少し曖昧だったりする。

親のことは、いつも心配している。
こんなに大好きで、こんなに大切なのに、離れて暮らすことを選び、そのせいで、おそらくこの先、親や祖母と過ごす時間が全部集めたって僅かに過ぎないことを思うと、どうしようもなく切ない。



年に2,3度実家に帰っても、旅行や食事にいくら一緒に行っても、どんなに何をプレゼントしても、一緒に暮らす生活には代えられない。
私と家族との時間は、決定的に限られている。
そのことが寂しいのは、他でもない自分自身だ。

実家から東京へ戻るとき、私はいつもいつも、これが最後である可能性を念頭に置く。
これでいいのか。これでいいのかと考える。
私は親不孝かもしれない。

だけど、私は、子が親のために生きるというのは違うと思う。
自分が親になったとしても、子に対して、自分たちのために生きろと言ってはいけないと思うから。

人間は、命をつないで未来へと進んでいくもので、生物的にも、社会的にも、進化が必要だ。
未踏の池に新しい飛び石を作り、後から来るものは、それを踏んでもうひとつ先に飛び石を作る。
そういうふうであるべきだと思う。
親が若い頃に常識だったものが今や過去のものになりつつあるのは、親の世代が何かを切り拓いたからだ。
それと同じように、子の世代は純粋に自らの理想を追求して、何かを切り拓かねばならない。

だから、子は自分自身のために生きなければならない。

どんなに親が好きでも、親が大切でも、私は私の人生を選択していかなければいけない。
その人生に東京という街が必要なら、その街で暮らすことを選ぶ。
そうやって自ら選び取る自由こそ、親が私に与えてくれたものなのだから。

そんなふうに言う私に、友人は言った。

「きっと、家族から十分に愛されてるから、そう思えるんやね」
「そうなんかな?」
「うん。そうやよ。愛されているという確信があれば、極端な話、実在は必要ない」

実在は必要ない。

一瞬、分からなかったけれど、もう一瞬後には、そうかと思った。
みるみる光が射して、ぱっと晴れ上がるみたいな言葉だった。

私は、映画「まぼろし」の話をした。

「フランソワ・オゾンの映画に「まぼろし」という作品があって」

穏やかな関係の初老の夫婦。
バカンスで出かけた海岸で、突如姿を消す夫。
海で溺れたのか、失踪したのか。
自殺なのか、事故なのか、事件なのか。

何も分からないまま、残された妻。

寂しさ、混乱、自己嫌悪、不信、絶望、いらだち、呆然、ため息、嘲り。

愛するものを失った、そしてまた、その理由さえ分からない女の姿を、カメラはずっとずっと、静かに、追い続ける。

さまよう心は、まぼろしを見る。

実在しない夫に語りかけ、微笑みかけ、その隣で眠る残された妻。
夫のまぼろしが姿を消せば、彼女は彼を探して外へ出てしまう。
彼が家出をしたのだと思い、自分の落ち度を思い悩み、彼の書斎を物色して嫉妬を募らせる。

自分はもしかしたら、彼に愛されていないかもしれない。
彼には、自分の知らない一面があるのかもしれない。
彼がいないことより、その不安こそが、彼女を苦しめる。

妻を演じるシャーロット・ランプリングの、ひとつのため息、ひとつのまなざし。
それがすべてして、彼女の苦悩がリアルなものとしてスクリーンに焼きつけられる。

おそらく精神医学的には、まぼろしを見る脳と心は病気であって、治癒の必要があるだろう。
だから周囲の人間は皆、彼女のことを哀れんでしまう。

しかし、異常と正常を分け隔てるものは、何なのか。
仮に彼女が異常でも、彼女が見るものがまぼろしでも、そこにその実体があることとないことに本当の意味で違いはあるだろうか。
誰かが誰かを本当に愛していれば、誰かが誰かに本当に愛されているという確信があれば、相手の実体など、本当は無価値なのではないか。

実体などなくても、そこにその人はいるのだから。

誰か好きな人のことを思い浮かべるといい。
その人が自分のことを好きだと確信できれば、まぼろしとして現れるその人は、あなたの前で微笑んでくれる。
そして、あなたは幸福を感じる。

けれど、その人が自分のことなど好きではないのだと疑っていれば、目の前のその人は、あなたの前から姿を消してしまう。
その人は決して微笑まないし、微笑んでいたとしても、あなたの疑いの心がそれを嘘だと否定して、その人は姿を消してしまう。

信頼は、全てを凌駕してしまう。
だから、家族は離れていても生きていくことができる。

そうして、物語の最後に、まぼろしへ向けて駆け出していく主人公の背中を、引き止めることなど誰にもできない。


まぼろし<初回限定パッケージ仕様> [DVD]
まぼろし Sous le Sable(2001年・仏)
監督: フランソワ・オゾン
出演: シャーロット・ランプリング、 ブリュノ・クレメール、アレクサンドラ・スチュワルト他
by yukotto1 | 2009-02-03 00:41 | 切ない映画