生活視点の映画紹介。日常のふとした瞬間思い出す映画の1シーンであったり、映画を観てよみがえる思い出だったり。生活と映画を近づけてみれば、どちらもより一層楽しいものになるような気がします。


by yukotto1
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サザエさん症候群と表現のすすめ-小説家を見つけたら-

女友達から突然「今夜会えない?」とメールが来た。
今夜は仕事を抜けられないので「電話しようか?」と返すと、「電話だと切った後寂しくなるから」会いたいのだと言う。
「明日なら」と返信して、翌日彼女と夕食をした。
哀しいかな、食事が終わった後には仕事に戻らなければならないので、彼女には私が勤めるオフィスビルの下まで来てもらって、あわただしい1時間半程度のディナータイムになった。



このビルの1階には天井の高いトラットリアとカリフォルニアキュイジーヌという名のアメリカンダイニングがある。
「どっちにしょうか」とたずねると「周りの人に話が聞こえない方がいい」と言うので、そういうことならと後者にした。
明るく、騒がしく、隣のテーブルまで距離がある。
「これなら安心だね」と彼女は笑った。

彼女の話は案の定だった。
もう1年ほど前に終わりを迎えた、くすぶった残り火のような恋が、振り返りざまに彼女を再び傷つけた。
そういう話だ。

ひととおり話を聞く。うんうんとうなづく。
あなたが言っていること、とてもよく分かる。
私も同じこと、思ったことある。
それは単なる偶然で、気のせいかもしれないし、もしかしたら真実かもしれない。
明日にはどうでもいいことになっているかもしれないし、同じことでこれから何度も苦しむかもしれない。
それは分からない。
だから、「そのうちいいことがある」とか「辛い思いをした人ほど幸せになれる」なんて、無意味な慰めはしない。

一息ついて少しリラックスしたところで、彼女が私に質問した。
「一人のとき、どうやって過ごしてるの?」
彼女は一人で過ごすのが耐えられなくて、週末は予定をぎっしりと入れてしまうのだと言う。
平日は遅くまで仕事して、週末にも色々とアクティビティをしてしまうので、体力的にはとても疲れる。
それはよく分かっているのだけれど、でも一人で過ごす時間は本当に辛い。
強迫観念にも近い形で、彼女の週末は既に10月まで全て埋まっている。
予定を埋められるだけ交友関係も趣味も広い彼女だけれど、くたくたになって日曜の終わりに、「私なにやってるんだろう?」と感じるのがまた辛い。

サザエさん症候群。よく言ったものだ。
日曜日の夕方、サザエさんが放送する時間になると孤独が襲う。
何もしなかった週末は、まるで人生を無駄にしてしまったようで落ち込み、慌しいばかりだった週末は、こんなにあくせくしても私の心は休まらない、と落ち込む。
一体いつまでこんなことを続けるんだろう、と落ち込む。
一人暮らしには必ずついてまわるものかもしれない。

私も一人暮らし歴が長い。もうかれこれ10年を過ぎる。
その間、いわゆるサザエさん症候群に近い孤独感は、あり余るほど経験している。
誰かが一緒にいてくれればいいけど、いつもそうとは限らない。
「一人の時間が楽しめるのが大人のいい女」と言うかもしれないけれど、それは自分は一人ではないという確信のある人が、一人きりになる時間を大切にできるという意味で、年がら年中自分を一人きりだと感じてしまう人には当てはまりようがない。
それどころか、こんなに一人を楽しんじゃってていいのかしら?くらいの気持ちが焦りになったりもする。

私が一人の時間にやっていること。
映画、読書、ネットサーフィン、テレビ、音楽・・・。どれもありがちだな。

映画好きな私だけれど、映画を観ている時間に癒されるかというと、そうでもない。
問答無用に強く感情を捕まえてくれる作品ならいいけれど、そうでなければ、無意味に残り時間が気になる。
あと1時間もあるの?とか。
なぜだろう?不思議だ。

読書も同じ。
残りページが気になる。

ネットサーフィンをしていると、同時にメールが気になる。
誰かからメールが来ていないか、しょっちゅうチェックしてしまう。

テレビは大抵、つまらない番組ばかりでイライラする。
それしかすることがなくて仕方なしにテレビをつけるのは、音がないのは寂しいからだ。

音楽はまた難しい。
心がささくれている時というのは、音楽さえも染み入る余地を失ってしまう。
そのときの感情にポジティブな意味でぴったりとくる曲以外は、受けつけられない状態になったりもする。
かと思えば、たまたまうまくチューニングが合って「ああこれだ」と感じる曲があれば、それをずっと聴いていたくなる。
半ば中毒のように。

だとすると、私を心底落ち着かせてくれるものは、と思い巡らせてみると、実は、最近で言えばこのブログを書いているときかもしれない。

モノを書くと安心する。
ペンやタイプに手伝わせ想いを吐露することで、考えが整理され、心が救われる。
注意深く言葉を探ることで、目に見えないこころというものを具象に投影させて再現する。
その慎重かつ神秘的な作業に、私は相当癒される。

これは、「表現する」ということに行き着くのではないかと思った。
映画も、読書も、ネットサーフィンもテレビも音楽鑑賞も、全て受身だけれど、「モノを書く」ということは能動的だ。
能動的に何かをする、そこには独特の癒しがあるかもしれない。

表現力は感受性と洞察力、再現力で構成されている、と思う。

あるものに触れたとき何を感じるか、そしてその意味をいかに深く普遍的に解釈するか、それを自分の持ちうる手段で他者に感じうるかたちで再現するか。
それは木片の中に埋もれた像を、丁寧に慎重に、あるがまま彫刻刀で外に出してあげる作業のようだ。
表現とは存在しないものを作り出すことではなく、存在するけれど埋もれているものを明らかにすることだと、そう思うのだ。

中学1年のときから、私は日記を書いている。
最近は毎日ではないけれど、時折、感じるところあれば日記帳にしたためる。
10冊以上に及ぶ日記帳にはグロテスクなまでの感情が剥き出しのまま綴られていて、それは私の青春、私の人生そのものに違いない。
読み返してみると、5年前も10年前も15年前も、自分が本質的には同じことを書いているのを発見したりして、昔の自分に諭されたりもする。

一方で、自分が書いた文章なのに、自分が書いたとは思えないこともある。
こんなボキャブラリーをどこで憶えたのだろうと思ったりもする。
どんな経緯でそんな言葉が生まれたのか、どうしても思い出せないことがある。
そんなときには、その表現が自分から生まれたとはにわかに信じられない。

映画「小説家を見つけたら」の中で老いた小説家ウィリアム・フォレスターは言う。
「第1稿は考えるな。書きなおすときには頭を使え」
確かにその通りだと思う。
自分でも気に入った、本当に良い文章が書けるときというのは、まるで神がかったように、思考の及ばない境地で言葉を授かる。
思考よりも前に筆が進む。
現れて消える言葉を、必死になって書きとどめる。
今でなければ書けないもの。
まさに、芥川龍之介の小説「戯作三昧」の最後で滝沢馬琴が得た感覚だ。

これを、恍惚と呼ばずになんと呼ぼう。癒しでなくてなんだろう。

ここまでたどり着くような経験はそうそうあるわけではない。
けれど、私が「モノを書く」理由にはその恍惚を渇望する気持ちが幾分ある。
ただ、「考えなくても書ける」に至るには、日常的に考える習慣を持ち、言葉のリズムや語感に対して注意深く生活している必要がある、と私は思う。
その蓄積の上に、恍惚の瞬間は訪れる。

同じ悩むなら、孤独を恐れるより、生まれ出づるお気に入りのフレーズに頭をひねる方がいい。

ウィリアム・フォレスターはこうも言う。
「小説家にとって一番幸せなときは、第1稿を書き終えてそれを読み返すときだ」

自分のために文章を書く。
第1稿は、私だけのための「神」からの贈り物のような気もする。

短いディナーの最後に、私は女友達に宿題を出した。
成果はメールで送ってねと伝えた。
宿題の内容は内緒だけれど、それをこなそうとすれば、彼女は様々なことを考えるはずだ。
どんな場面でも、どんな経験でも、そこから何かを汲み取って、ある種の生産活動に活かそうとするはずだ。
ただ孤独を埋めるためだけにアクティビティをこなすのではなく、そこに目的を与えることができるだろう。
人は何をしていても、何に触れても、必ず何かを感じているはずだ。
次のステップは、それを考えること。
なぜ自分がそう感じたかを丁寧に考えること。
そして、いかにしてその感動を再現するかトライしてみること。

一人の時間に限らず、あらゆる時間を有意義に変えるのは、受身だけで完結しないことなんじゃないか。

彼女は「ありがとう」と言って帰っていった。
少しは役に立てたかしら。

彼女はこの週末を、どうすごしているだろう。


小説家を見つけたら Finding Forrester(2000年・米)
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:ショーン・コネリー、ロブ・ブラウン、エフ・マーリー・エイブラハム他

戯作三昧
著者:芥川 龍之介
出版:新潮社
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by yukotto1 | 2004-09-05 03:32 | ハッピーになる映画